いじめ重大事態不明公表情報に基づく
(ナガサキノート)被爆後にいじめ 破られた卒業証書 [長崎県]
- 都道府県
- 長崎県
- 報道日
- 2016年2月19日
- 発生年
- 2016年
- 公表主体
- 朝日新聞
事案の概要
(ナガサキノート)被爆後にいじめ 破られた卒業証書2016年2月19日 19時07分有料記事力丸祥子・28歳印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするlistはてなブックマークでシェアする貼り合わせた卒業証書は今も大切に保管している=長崎市
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中村由一さん(1942年生まれ) 「いじめを受けた子どもが自ら命を絶った」というニュースに触れるたび、2歳の時に爆心地から1・2キロの長崎市浦上町(現・緑町)で被爆した中村由一さん(73)の顔が浮かぶ。「もし、その子が中村さんの話を聞いていたら、思いとどまったのではないか」と思うからだ。「ナガサキノート」バックナンバー 中村さんは原爆で頭に大きな傷が、両足にやけどの痕が残った。引っ越した大浦では、その見た目から壮絶ないじめを受けた。だが、被爆から70年が経った現在は、「今まで経験したこと、すべてが今の自分を支えてくれている」と話す。記者が取材の依頼をすると、「差別を受けた私の怒りもしっかり記録してほしい。それを知ってもらうことが本当の平和につながる」と、幼少時代のつらい経験やその時の気持ちも話してくれた。 戦後、食料難や貧困に苦しんだ長崎市民の間で差別があったこと、中村さんの人生に原爆がずっと影響し続けたことを、しっかりと記したいと思う。 中村さんは1942年、父の嘉四郎(かしろう)さんと母のイネさんの子どもとして、浦上町(現在の緑町)で生まれた。中村さんは原爆のけがでそれまでの記憶を失っているので、ここからは、中村さんがのちに母親や親族から聞いた話がもとになっている。 両親ともに浦上町生まれ。嘉四郎さんは茂木町で漁師になったが、イネさんと結婚後、ふるさとに戻って、子どもの頃に習った靴の修理で生計を立てていた。 原爆が投下されるまで、中村さんが一緒に過ごしていた兄弟は兄の常己(つねみ)さんと弟の勝利(まさとし)さん。中村さんは3人兄弟の次男だった。中村さんが「人から頼りにされ、面倒見がよかった」というイネさんは、仕事の都合などで親と一緒に過ごせなくなった親戚の子どもを2人預かっていたので、子どもが多い、にぎやかな家庭だったという。 太平洋戦争が始まると、嘉四郎さんが三菱造船所に徴用され、造船所で働く人たちの靴の製作や修理を担った。 戦争が激しくなった44年、嘉四郎さんは44歳で戦地へ行った。家には母イネさんと子どもたち5人が残された。働ける人がおらず、生活は苦しかった。イネさんは食料を調達するため、大八車を引いて親戚が住む茂木などにたびたび出かけていたという。 45年8月9日の記憶は、2歳だった中村さんには残っていない。イネさんが残した被爆証言によると、この日も、茂木の親戚から浦上町の自宅に連絡があった。「薪がなくなったから持ってきてほしい。帰りにカボチャやジャガイモを持って行きなさい」という内容だった。イネさんは中村さんと生後9カ月の弟勝利さんを寝かせると、隣の家で仲間と革靴を作っていた親戚の田中明(たなかあきら)さんに子どもたちがお昼寝中であることを伝え、出発したという。 田中さんは「長崎にも激しい空襲があるかもしれないから、早く戻るように」と注意して送り出したという。 中村さんが、後に大人たちから聞いた話によれば、母イネさんが茂木の親戚の家に向かったあと、中村さんは…
出典
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